休日に夫とテレビを観ていた時のことである。
テレビでは大手芸能事務所のすでに故人である元社長の性加害問題や人気歌舞伎役者の自殺未遂事件が報道されていた。ふたりとも無言で番組を観ていたが、やおら夫がテレビから視線を外さず話を始めた。
「大学に入学したとき初めて親元を離れて下宿したんだよね。平屋の一軒家の離れを借りて賄い付きだったけど格安の家賃だった。大学から近かったし静かな環境でとても気に入っていたんだ。大家さん夫婦はご主人が公務員で奥さんは専業主婦だった。高校生の息子さんがひとりいて大きな秋田犬を飼っていてね。歳が近いせいか息子さんとも仲良くなって宿題を手伝ってやったり、時間があれば犬を散歩に連れていってあげたり、家族のような関係になって快適な学生生活だった。同級生は下宿先やアパートの文句を言っている奴が多かったから、俺は自分が恵まれていると思っていたんだ。」
初めて聞く話だった。ただ夫は突然脈絡の無い話を決してしない人だ。どういう展開になるのか私は続きの話を待った。
「蒸し暑い真夏の夜だったな。風呂から上がって自分の部屋に戻ると大家さんが俺の部屋にいたんだ。その日は高校生の息子さんが部活の合宿で家にいなくて、奥さんは数日前から子宮筋腫で入院中だった。テーブルの上にはビールと日本酒とコップがふたつ置かれていてね。」
『子供の勉強やら犬の世話やら、いつもG君には家のことを手伝ってもらって感謝してるんだ。今夜は一緒に飲みたいと思ってね。勉強の邪魔じゃなかったかな?』
「大学はすでに夏休みだったし、大家さんの好意を断る理由もない。いいですよ、と言ってふたりで飲み始めたんだ。ただ、俺は大家さんの向いに座ったが、彼はすぐに俺の真横に座り直したんだよね。そのとき少し違和感を感じたけど、あまり深くは考えなかった。いろいろ世間話をして夜も更けた頃、大家さんが急に俺の膝の上に手を置いてきたんだ。」
『G君、君はまだ若いからわからないと思うが愛の形はひとつではないんだ。ひとつ目は男と女、二つ目は女と女、そして三つ目が男と男だ。俺も若い頃は男と女という異性との愛しか知らなかったが、後に違う形にも目覚めたわけだ。最初は気味悪く感じるかもしれないが怖がることはない。黙って俺に身を預けてくれないか。』
「と言い終えるやいなや、大家さんがいきなり俺に覆いかぶさってきたから、びっくりしたのなんの。俺も抵抗して突き飛ばしたもんだから相手もムッとしたみたいで、今度は胸ぐらをつかんできたんだ。」
幸いにも夫は柔道の有段者であった。
「締め技は素人相手に本気でかけると危険だから、とっさに引き倒して巴投げを打ったんだ。きれいに決まってね、大家さんは襖に叩きつけられて縁側に落っこちたんだ。今度こんなことをしたら承知しない旨を告げて部屋を飛び出したけど、真夜中で行く当てもなくて困ったよ。明け方自分の部屋に戻ったら、倒れた襖も直っていて部屋もきれいに片付けてあった。」
次の日以降、大家さんはどんな顔をして夫と接したのだろう。一軒家だから嫌でも顔は合わせるはずだ。
「流石に次の日はバツが悪かったのか顔を合わせないように早朝出勤したみたいだったな。僕の部屋は鍵なんてなかったから、そんなことがあって以降は角材を拾ってきて夜は襖につっかえ棒をして、枕元にも護身用に一本置いて寝ることにしたんだ。次の下宿先を早く見つけなきゃと思ったね。事情を知らない奥さんと息子さんは随分引き留めてくれてね。僕もあんなことがなければ卒業までお世話になるつもりだったから残念だったよ。」
その家では以前にも同じようなことがあったのだろうか?奥さんは本当に何も気づかなかったのだろうか?夫はたまたま上手く相手を拒絶できたが、できなかった人もいたのではないだろうか?
「どうだろう。誰にも今まで話したことはなかったからね。45年以上も前のことだけど、ずっと忘れていたな。でも今回の一連の報道を見聞きして思い出したんだ。若いときは随分びっくりしたけど世の中では特殊な話ではなかったのかもしれない。」
確かに人間の愛の形はひとつではなく人それぞれかもしれない。しかし相手が未成年であったり、自分の立場を利用しての強要となると話は全然違ってくる。
それにしても夫が拒絶できなかったとしたら、その後彼の人生はどのように変わっていたのだろうか。私と穏やかにテレビを観る毎日は今と変わらず存在したのだろうか。
夫の答えは「考えたくもない」とのことである。
👑ねむり姫👑