映画スターの資質 ☆彡

映画スターの資質 ☆彡

2023/1/26

正月休みに少し時間ができたので珍しく邦画を何本か観た。観たといっても映画館へ観に行ったわけではなく、1950~1960年代の古い映画を配信で観たのだ。私が物心ついた1970年代、日本ではすでに映画は斜陽産業だった。理由としてはテレビが各家庭に普及するなど人々の生活が豊かになり娯楽が多様化したからだと言われた。多くの俳優さんが映画からテレビドラマに活躍の場を移していった。
石原裕次郎氏もそのひとりだった。私は映画スターとしての彼の全盛期を知らない。1970年代から始まった刑事ドラマ「太陽に吠えろ」や「西部警察」などのボス役でテレビ俳優さんとして、また芥川賞作家でもあり政治家でもあった石原慎太郎氏の実弟として認知していた程度である。晩年は大病を患い長く辛い闘病生活の後、57歳で亡くなってしまわれた。
配信のオススメに彼の映画が上がってきたのでなんとなく何本か観てみた。ところが観始めたらこれがなかなかやめられない。映画の内容がすごく面白く作品として水準が高いのかと言われると、必ずしもそうではない。でも、この石原裕次郎という人には人を惹きつけてやまない魅力がある。紛れもなく銀幕のスターなのだ。日本人離れした体躯とすらっと伸びた長い足、悪ぶっていてもどことなく育ちが良さそうで、ときどき瞳の奥にいたずらっぽい表情が垣間見える。




もちろん周囲に育てられ守られてスターと呼ばれる人は光り輝く。ある程度は人工的に作られ磨かれるのだが最初にその原石を見つける人は相当の目利きでなければならないだろう。日本では人気の俳優さんは数々いらっしゃれど「映画スター」と呼ばれる人はほとんどいない。映画出演だけで生計を立てていくのは現在では至難の業である。
たて続けに石原裕次郎氏の映画を観て「映画スター」の資質についてぼんやり考えてみた。まず何本観ても見飽きない。もっと観てみたいとさえ思う。今の私ですらそう感じるのだから、当時のファンは新作の封切りが待ち遠しくて仕方がなかっただろう。実際、彼がデビューした1957年から1966年の約10年間、ほぼ毎年10本の映画に出演している。ほとんど毎月新作が発表されていたことになる。映画を観ていると撮影所の中だけでなく全国津々浦々地方都市での撮影も多い。一体全体どのようなスケジュール管理で撮影が行われていたのか驚異的である。主演ですらこの状態であるから映画に関わるすべてのスタッフは当時寝る暇があったのかしらん?と思ってしまう。

よく言われることのひとつに、昔の「映画スター」はお芝居はあまり上手じゃない云々の話がある。私は以前、石坂洋次郎原作で映画化された「陽の当たる坂道」という映画の石原裕次郎氏主演版(1958年公開)と渡哲也氏主演版(1967年公開)のどちらも観たが、びっくりしたことがある。後に先輩後輩以上の関係になるおふたりだが、渡哲也氏の方が色々な役柄に挑戦された故にお芝居の幅は役者として上であると思っていた。しかし殊この映画においては石原裕次郎氏はその瞬発力と陽の当らない心の陰影の表現において、他者には真似できない演技を見せてくれている。
かつて石原裕次郎氏の葬儀で大親友だった勝新太郎氏が、
役者としては俺のほうが勝ってんじゃないかななんて思いながら、
このあいだ『陽のあたる坂道』とか、いろんなのを見てるうちに、
とても追っつかないなと、これは。
と弔事の中で述べておられたが、これは偽らざる本音だと思う。勝さん以外には言えない言葉だ。
さて、すっかり石原裕次郎氏礼賛記事になってしまったが、あくまで「映画スター」と呼ばれる人たちの中で優れた資質の持ち主の一人として挙げさせてもらった。そう呼ばれる俳優は洋の東西を問わず稀有な人たちである。映画というものは、もちろん監督や脚本家を始めとして多くの裏方さんの才能・努力の結晶ではあるが、何はともあれその役者さんが観たいから映画館に行く、という選択肢はこの先もあって良いはずだと思う。
👑ねむり姫👑

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